酒とつまみと666円
徒歩について
田舎において歩行者は弱者である。
距離が1km未満であっても、徒歩で出かけるということはない。
免許のない未成年は基本的に自転車に乗っている。
歩いているのは免許返納したであろう後期高齢者か、不審者くらいのものだ。
成人が自転車に乗っているのも不自然な話である。
上記の事柄は、もはや人に聞かずとも耳に入ってくる常識だと思う。
しかし実際に自分が徒歩や自転車で移動していて、職質にあったり不審がられたことはない。
「直接言われないだけで奇異に思われているはず」
「不審者として近所で噂になっているはず」
これらは被害妄想である。
人は他人が何で移動しているかにそこまで興味がない。
気にする余裕もなく、また知り合いでもない人物について考えを巡らせる理由もない。
精神的に余裕がなくなると、他人の目が気になってくる。
「いい年をして徒歩で出かけるのは恥ずかしい」と思っているのは他人ではなく自分であり、不審者に属していると考えているのも自分である。
社会に怯えていると、たんだんとそれを負い目に感じてくる。
将来への恐怖。
働いていないことへの恐怖。
満足に生きられないことへの恐怖。
恐怖心からの自己反省はやがて他者への怒りに変わり、最終的に自己否定に繋がる。
666円を握りしめて歩いた日
父親が帰宅するのが午後9時頃。
それから食事をとり、一息つくのが10時頃。
そのタイミングで666円をねだる日々が2年ほど続いていた。
当時、セブンイレブンの発泡酒「ザ・ブリュー」3本と柿ピーを買うと、ちょうど666円になったのだ。
父親は嫌そうな顔をしながらも、毎日金をくれた。
たまに小銭がないからと千円札を渡されたときには、お釣りを返さずに貯めておいて煙草を買った。
自分のことを惨めだとは思わなかった。
小学生の小遣い程度の金すら捻出できない自分の無能が悲しかった。
ある日いつものように666円を握りしめコンビニに向かい、発泡酒3本と柿ピーをカゴに入れレジへと向かった。
ニュースを見ない俺は、数日前に発泡酒が値上げしたことを知らなかった。
レジに表示された金額は666円を超えていて、見慣れない金額にしばらく硬直した。
「すみません」と言って、財布から小銭を探すフリをする。
中に手を入れる前から、カラだということはわかっている。
足りなかったのは20円か30円くらいだったと思う。
財布のほかにポケットにも手を入れてみる。
何か奇跡が起きて、100円でも入っていないかと心の底から念じた。
奇跡は起きず、柿ピーは棚に戻した。
レジで「すみません、やっぱりこれやめます」と言ったのは小学生のとき以来だった。