SNSが幸福度に与える影響
SNS利用者を襲う情報量の暴力
日常生活を生きる上で必要な情報量は多くない。
8000km離れた場所で行われた渡河作戦の詳細が俺の幸不幸に影響を与えることなどないのだ。
100km離れた場所にある建物にジェンダーレストイレができたとしても、俺の明日に何の関係もない。
かろうじて影響があるのが自宅から10kmの位置で掘られているリニア用のトンネルだが、そのような僻地で行われている工事の情報はインターネット上には存在せず、いつからいつまで掘るつもりなのかまったく分からない。
山道を行き交う大量のトラックといつか衝突するのではないかと気が気ではない。
SNS利用が個人の幸福度を下げるという研究は膨大にある。
着眼点はいいね付与率や他者とコミュニケーションをとる頻度、利用方法等様々あるが、総じて結論は「SNSとの付き合い方を考えましょうね」というまとめ方をしている。
「今の若者は不幸だ。SNSで成功者の投稿を見続けるせいで自分と較べて不幸になっている」との意見をよく見かける。
その成功者も幸福とは限らず、自分の情報を盛れば盛るほど不幸であるという研究結果もある。
なるほど確かに四六時中盛っている投稿ばかりしたり、見ていたら気分が悪くなるかもしれない。
自身の経験から考えて
俺はこのブログを始めるまで、TwitterもInstagramもFacebookも真面目にやってこなかった。
TwitterとFacebookは10年くらい前に登録していたし、海反サイトをやっていたときには更新情報を発信していた。
その間他人の投稿を見るということを一切やってこなかった。
最近になって初めて他人の投稿を読むようになった。
俺が読むのは俺と似た人間の投稿だけだ。
俺はもともとネガティブな人間だから、必然的にネガティブな投稿ばかりを読むようになる。
まー気分が滅入る滅入る。
いくら元がネガティブだといっても、個人が出力できるネガティブ思考には限界がある。
知らない単語、概念は自分の頭から出てこないし、食事を摂って血糖値が上がっている最中にネガティブ思考をするのは難しい。
SNS利用中は状況関係なく思考にブーストがかかる。
「特に考えたこともなかったが、読んでみるとたしかに自分と当てはまるかもしれない」程度の情報がていねいに言語化されて頭に入ってくる。
つい先程上司に怒られた。
その上司に確認しなければならないことがある。
話しかけづらく汗が吹き出て動悸がする。
よっぽどでない限り、この反応は普通である。
この状況なら誰だってこう思う。
ビビリながら話しかけるので何を言っているのか上手く伝わらず、「ごめん何言ってるかわからない」と返される。
怒られたくないという意識が先行して修飾語過多で話すからだ。
休憩中、もしくは帰宅後に似た状況を調べてみる。
「もしかしてHSPかもしれない。ASDかもしれない。自己愛性パーソナリティ障害かもしれない。ADHDかもしれない。適応障害かもしれない」
堂々巡りが始まる。
不幸の言語化と拡大再生産。
似た者同士で励まし合いたかったのに、なぜかモチベーションが下がっていく。
これがSNSに対して感じた俺の意見だ。
余談
初めて正社員採用されて、疲れたなぁと思いつつ働いている。
家に帰ってから料理を作り酒を飲む余裕もある。
Discordで友達から「Smallandやろう」と言われた。
「給料日が来たらでいいか」と言うと「いいよ」と返ってきた。
ブログを書いてミッドジャーニーで遊ぶ時間もある。
先月生成した画像は316枚だった。
人生の不幸部分にフォーカスさえしなければ、十分幸せなのではないか?
今ここにないものは存在せず、存在しないものについて考える必要はない。