誰かの犠牲の上に成り立つ幸福は長続きしない
誰か真剣に考えたのだろうか?
2025年問題について誰も真剣に考えないまま、今日に至った。
増え続ける老人、逼迫する社会保障費、増税、未来を悲観する若者。
個々の問題が話題にならない日はないといっていいが、どれに対しても明確な答えがない以上、解決は無理だと〝頭のいい人たち〟は諦めたのだろう。
彼らの名誉のために言っておくと、何もしなかったわけではない。
デンマークかスウェーデンかフランスあたりを参考にして考えられた『地域包括ケアシステム』は優れており、ドイツが参考にして取り入れるほどの出来栄えだった。
わかりやすく言うと、認知症の人は近所で面倒を見ろ。差別するな。ということである。
施設や病院に入りっぱなしで寿命を最大限まで伸ばすというのは日本特有の現象なのだろうか?
人口1300万人を有するカナダのオンタリオ州で、居住型ケア施設に入居している人の数は8万5000人。
(参考:厚生労働省 カナダ 社会保障施策)
同じく人口1300万人の東京都での特別養護老人ホーム、老人保健施設、有料老人ホーム、グループホーム入所者の合計は7万3000人。
(参考:福祉保健局高齢社会対策部 東京の高齢者と介護保険 データ集)
どちらも国家主導で地域、在宅ケアを謳っている。
大して変わらないからヘーキヘーキと言いたいところだが、日本の状況はちょっと常軌を逸している。
現時点で相当悪いのだが、悪くなるのはこれからといったところに立っているのだ。
よく「高齢化が問題なのではなく、少子高齢化が問題なのだ」とか、「高齢化率が問題なのだ」という意見を耳にする。
言葉遊びで目を背けるのは結構だが、結局のところ全部問題だから大丈夫。
加えていうならば、高齢化のスピードも問題なのである。
出生率の話で名前の挙がることの多いフランスだが、1865年時点での高齢化率が約7%だった。
そこから14%を超えるまでに114年かかっており、20%を超えるまでには154年かかっている。
日本は5%から28%に至るのに71年しかかかっていない。
制度設計が追いつかないのも当然かもしれない。
制度設計とはつまり過去の文化習俗、慣例を効率化、システム化することであり、特定の誰かに依存したやり方は制度とは呼べない。
過去日本では老人介護は家族の仕事だった。
男が働きに出ている関係で、女性側に負担がかかっていたといっていい。
両親、義両親、旦那の面倒まで見ていたのだから大したものだ。
これだから日本は! という声が聞こえて来そうだが、大丈夫、他も同じだから。
結局女性だより
介護職は圧倒的に女性が多い。
これで「介護は女の仕事だ」という認識を変えられなかったことがわかる。
社会進出により家族の面倒を見られなくなった女性たちは、他人の面倒を見るようになった。
今までは無給でやっていた仕事に給料がつくようになったと考えれば進歩である。
国連に『ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関』が設置されたのが2010年。
直接関係あるかは知らないが、「介護は家族の仕事」としていた各国が介護者向きの法整備を進めだしたのもこの前後に集中している。
日本においては『高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律』が施行されたのが2006年だから、一応早く動いた部類に入る。
法は整備したが認識は変わらなかったところで2025年を迎えようとしている今、介護現場で問題となっているのは利用者の増加ではない。
職員の高齢化である。
50、60代のおばちゃんが70、80代のお婆ちゃんを抱え上げ風呂に入れオムツを変えている。
みんな満身創痍で働いている。
足、腰、膝に疾患のない者はおらず、もはやまっすぐ歩けない身体で16時間夜勤をこなしている。
彼女らの言う「仕事だから」は、俺が毎日飲むハイボールと同じ意味しかない。
考えても無意味なことを考えないようにするための魔剤。
歪なシステムの耐用年数
何かがおかしいと皆が思っているけれど、どこが間違っているのか誰にも分からない。
誰かが声を上げてくれるのを待っている。
ある日天上から「臨時メンテナンスのためしばらくサービスを停止します。お休みになってお待ち下さい」という声がするのを期待している。
耐え難きを耐える日々に終わりがないのだとしたら、一体どの程度まで我慢できるのだろうか。
日本人は我慢強いから、未来永劫絶対に破綻しないという可能性もある。
俺は専門家じゃないから分からないが、絶対に破綻しない想定でシステムを組むことがあるのだろうか。
未来が永久に失われるとして、それを「仕事だから」で見て見ぬふりができるだろうか。
俺が引きこもって無職でいる間に、世間はずいぶんと物騒になった気がする。
俺が羨んだ人たちはまだ幸福でいるだろうか?