ミスをして落ち込むのは普通の人間である
仕事でミスをした。
単純な話で、前日から下剤を飲んでいた利用者に1日排便がなく、一気に出たところ弄便してしまった。俺がその処理にあたり、うまくできていなかった。
ミスしたときに言い訳をするのは最もやってはいけないことである。
だから俺も例にならって平謝りに徹した。
介護職に就くにあたり、人の排泄物が無理だという人がいる。
それは最もである。
なので俺もそれに関してどうのこうの言わない。
俺は俺のことをゴミだと思っているから、人の排泄物を処理する仕事も甘んじて受け入れるし、またそうあるべきだと思っている。以上。
先輩の前では言い訳をしなかったが、ここでは本音を言いたい。
マジで見えなかったし、排泄されてからおそらく12時間以上経っている泥状便を完璧に綺麗にするなんて無理だ。
他に何人の利用者を見る必要があるかは先輩が一番知っているはずだ。
俺がわざと適当に仕事をして、黙っていればバレないと思ってやったと思われるのは心外である。
それでもミスはミスである。
他の人なら完璧にやるんだろうな、と思いつつ、言い訳の余地もないミスをしてしまったことに自己嫌悪する。
ミスをしたときに落ち込むのは普通の人間である。
どんな人でも怒られるのは嫌だし、怒られたら気分が沈む。
あのときどうしてこうしなかったのだろう、できなかったのだろうと後悔し、ストレスが溜まる。
問題はそのミスを引きずるかどうかである。
俺がミスを引きずる人間であるというのは今までのブログを見ていれば明らかなので、今更説明の必要もないと思う。
俺はミスを引きずる。
引きずるからこそ、こうして長々と言い訳じみた文章を書き連ねているのだ。
俺の思考プロセスを惜しげもなく開陳すると、こんな感じである。
思えば今流行りの概念であるHSPという語、昔の哲学で「悟性」と呼ばれていたものと似ている。
俺がこの語を知ったのがヘーゲルの『精神現象学』だから、俺の使う悟性の語義はヘーゲルのそれと同じだと言って差し支えない。
こういうと一見知的だが、要するに「ンゴ」をどこで使っていたのかという意味と違いない。なんjかおんjかまとめサイトかTwitterなのか、学部で流行っていたからなのかという話だ。
純粋経験の記事で少しデジタルネイティブ世代に触れたと思うが、実際俺もこの世代に該当すると思っている。
この世代特有の現象として、表情や語気を介さないコミュニケーションに特化した弊害として、共感性の欠如や感情のマネジメントがうまくできなくなっているのだという。
つまり情緒のトリガーがガバガバなので、わけのわからないところで暴発するということだ。
事実今日の俺は暴発しているのでこれを書いている。
ただ弄便の処理がうまくできなかったというだけで。
『デジタル社会における感情の発達と教育』は討論形式の論文となっていて、俺には一体どの部分が討論なのかがわからないが、一見の価値があるものとなっている。
その精神は太宰治に繋がる。
どうやらSNSでネガティブな発言をする輩の深層心理には、それを否定してほしいという願望があるのだという。
否定されることで肯定された気分になり、自分にとっての「理解者」が現れることを期待しているのだという。
時間切れだ。
俺は今ハイボールを3リットル飲んでいる。
俺はもはやさっきまでの俺が何に絶望していたのか分からない。
俺は俺の悟性から切り離され陶酔し、忘却へと向かう。
ダメ押しであと2リットル飲んでフィニッシュかな。
これが即自且対自、アン‐ウント‐フュール‐ジッヒですよね、ヘーゲル先生。
ハイリッヒ・ボーゲン・ハイリッヒ・プファイル的な。