28歳無職弱者男性の日記

29歳になりました

祖父の戦い

 

祖父は旧日本帝国海軍の海兵だった。

葬式のとき祖父の兄弟が語っていたことを忘れてしまったが、11人兄弟のちょうど中間くらいの生まれだったという。

中学を卒業するとすぐに帝国海軍に志願して海兵となった。

そんな祖父は俺の誇りである。

 

祖父の乗った船はひとつではない。

命令のあるままに様々な船に乗ったそうだが、移動があり船を降りるとその船が沈むという豪運の持ち主だったと祖母が語っていた。

最後に乗っていたのが駆逐艦響。

戦後まで沈まなかった豪運の船だ。

 

生存者というか、同船のよしみというか、そういった繋がりは平成まで続いていた。

1年に1度会を催し旅行に出かけるのだ。

当然俺はその会に同席したことはない。

 

会費としてとってあった金から1万円を盗んだことがある。

祖母が怒り俺を疑った。

俺は盗った金を靴底に隠していたから、知らぬ存ぜぬを言い張った。

疑うならどうぞ調べてくれと服を脱ぎポケットを見せた。

 

祖父は戦後先輩のツテで東電に入職して働いた。

毎年新しい靴とシャツ、ズボンが支給されるホワイトぶりだったという。

1年で靴がだめになるわけがないから、祖父の家には26cmの新品の靴が40足くらいとってあった。

祖父は俺に「履けるか?」と尋ねた。

俺の足のサイズが28cmと知ると、大きいなと言って笑っていた。

 

中学生の頃よく嫌なことがあると、祖父の家に歩いていった。

街道を通れば片道1時間程度の道のりだが、学校をサボっているところを見られたくなくて、わざわざ迂回して山道を通り3時間くらいかけて行っていた。

 

そんな俺を祖父は優しく迎え入れてくれたわけではなかったが、厳しく追い返したりもしなかった。

祖父の家には叔母が住んでいて、仕事の関係上最新のPCが置いてあった。

俺の目当てはそのPCでFPSをすることであった。

 

FPSで銃を片手に走っていると、祖父がうしろから画面を見て「小銃を持ったままそんなに走れない」と言った。

俺は内心うっとうしく思いながらハンドガンに持ち替えて見せた。

すると祖父は「拳銃なんか使わない」と言った。

 

テレビに映る老人は総じて戦争の闇しか語らなかったし、PTSDを患ったのか語りたがらないという話ばかり聞いていたから、祖父が興味津々で戦争ゲームを眺めているのが面白かった。

 

確かに戦争そのものの話はあまりしなかったが、酔ったときに必ずする話が「手榴弾で魚を獲ろうとした友達が誤爆して腕を失った」というものだった。

祖父はそれに対して「泣くな! 男だろ!」と活を入れたという。

 

俺の名付け親は祖父である。

彼は死ぬ間際まで定職に就かない俺のことを心配していた。

認知症を患い、免許返納したことも忘れて車に乗り、5メートルも走れずに畑に突っ込む始末でもなお出来の悪い孫の行く先を案じていたのだ。

 

最後まで恩を返せなかった。

あの1万円はとうとう返せなかった。

バカな酒をバカのように飲んでいる暇があったら、おじいちゃんに立派な姿を見せてあげたかった。