28歳無職弱者男性の日記

29歳になりました

出勤したら婆さんが死んでた

これってええんか?

今日、痛い腰に不満を覚えつつ出勤したら婆さんがひとり死んでいた。

この前記事に書いた山田ハルエ(仮名)が死んだのだ。

俺も暇じゃないから、野良の利用者のケース記録、看護記録、生活歴、既往歴をいちいち漁ったりはしない。彼女はターミナルケアの最中で、施設総出でケアに当たっていたから調べることになっただけだ。

 

出勤早々「山田さん亡くなったから最後に顔を見てあげて」と言われた。

見に行くとまだ死後硬直が始まって間もないという感じで、まるで生きているようだった。

それこそ俺が昨日早番で「お疲れ様でした」と言って帰った時と一緒だ。

だって昨日は排泄介助のときに摘便すると指示があったから、俺と看護師で介助に入っていたのだ。その時の表情と何も変わらなかった。

 

朝早くに連絡がいって駆けつけたという家族は一旦荷物を取りに自宅へ帰っていた。

荷物というのがなんだか分かるだろうか。

死体に着せる服を持ってくるのである。

あのさ、その婆さんは90幾歳になって今まで何を着ていたと思う? 「New York City」と書かれたトレーナーだよ。それにすみっコぐらしのパーカー羽織ってたんだよ。全部職員のお下がりだ。

それを今になって「お母さんは着物が好きだったから……」で着物持ってきてんじゃねえよ。

 

認知症になり〝不要〟になった母を20年施設に監禁していたが、ようやく死んだので社会人として〝通過儀礼〟を行うために来た。そういう感じだった。

 

そして待ってましたと言わんばかりの顔をした葬儀屋が現れる。

一介護士として思う

「あぁ俺が夜勤のときじゃなくてよかった」

こう思う介護士は多いと思う。

俺も実際にそう思った。まず看護師に連絡し、相談員に連絡、施設長、場合によっては介護主任に連絡。施設ごと連絡網は違うと思うが、キーパーソンに直接夜勤者が連絡することもあると思う。

バラバラに駆けつけてくる人たちへの対応に追われる夜勤者。もちろん休憩、仮眠どころではない。

 

人が死ぬと夜勤はバタバタになる。

まず医師が到着しない限り死亡診断が下せない。

死亡診断が下せない限り生きているものとして扱わなければらないから、酸素も止められない。しかし酸素もタダではないので看護師は言う。「バルブをギリギリまで閉めといていいよ、どうせ意味ないんだから」

 

我が施設の提携病院の当直医は夜間施設に駆けつけることはない。

朝になってから日勤の医者が来るのだ。面倒だからだろう。

死亡診断がされてからはスムーズにことが運ぶ。葬儀屋が駆けつけ出棺。

葬儀屋に頼まない場合は家族が軽自動車に死体をのせて去っていく。

 

ふと思った。

これ葬儀屋斡旋してたらいくら貰えてるんだろう、と。

 

急に連絡が来て、テンパっている家族にこう言うだけでいい。

「あとの手続きはこちらでやることも可能ですが、どうしましょう?」

 

まぁこれは憶測の域を出ない話だから置いておく。

警察と葬儀屋の癒着が問題として取り上げられたことがあるが、それよりも格段に遺体搬送する機会が多い介護施設に葬儀屋の営業が来ないなどということがあるだろうか。

死にかけ老人から金を吸い取っているのは、医療現場だけではないということだ。

 

そしてこれは間違いなく我が施設で行われている行為のひとつ。

身寄りのない老人、つまり生活保護を受けている老人の話だ。

死ぬと葬儀屋に連絡するのは施設である。当然である。家族がいないのだから施設でやるしかない。

その後寺に連絡して葬式の準備を行う。

 

身寄りがないのだから葬式に来る人もいないはずだ。

しかしきっちり貯金全額分の費用をかけて行う。

どうせ国に回収される金だから、民間に回そうという魂胆だろうか。

坊さんや葬儀屋はそれに関して仕事をするのだから報酬を受け取る道理はわかる。それを斡旋する施設はいくら貰うのだろう。

まさか一銭も貰ってないわけないだろう。

身寄りのない生活保護の老人に200万円かけて葬式をするのだから。

これが現実。

これが介護。

これが世の中だ。

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ついに腰をやったかもしれない

介護・看護師の敵

通常夜勤のある仕事の場合、夜勤のある期間、日勤の期間と分かれていると思う。

他の仕事のことはあまり知らないので、聞きかじった程度の知識だ。

介護・看護には悪夢の勤務が存在する。

それが夜勤明早番だ。

夜勤明けで帰ってきた日、当然徹夜で仕事をしてきているので寝る。

帰ってきてすぐに寝るのか、昼間で待つのか、夕方まで耐えるのか、睡眠サイクルを崩さないために夜まで起きているのかは人それぞれだろう。

ともかくどこかで寝る。起きたら次の日に早番で出勤するというのが、夜勤明早番である。

 

起きたとき、というか寝ているときでさえ半分今自分がどこにいるかわからなくなる夜勤明け。

ナースコールの幻聴が聞こえる。

ハッと目覚め今自宅にいることを確認し、また眠りにつく。それが夜勤明けだ。

 

まさしく今日俺は悪夢の勤務だった。

実際に目が醒めたのが午前3時。この時点で11時間眠っていた。

しかし俺は知っている。ここで起きると午前10時とか11時にもう一度眠くなる。

だから強引に午前5時頃まで眠ろうと努めていた。

このときには異変はなかったと思う。

少なくとも痛みは感じなかった。

出勤してしばらく経った頃、腰に違和感を覚えた。長時間寝たせいだろう、と最初は気にしないふりをしていた。

しかしだんだんと違和感が痛みに変わり、無視できなくなってきた。

これ腰痛だ、と直感した。

軽作業は死ぬほど嫌だったけれど、今までの人生で川砂・セメント・タイルを何百個運ぼうとも腰痛になったことはなかった。日本酒一ダースを頭の上の高さまで積み上げても腰を痛めることはなかった。もちろん筋肉痛にはなった。立ち上がれないほど強烈で激痛のやつ。

腰痛とは筋肉痛のことではない。もっと大事な、一度傷ついたら修復が難しい部位(骨とか神経とか)が傷つくのが腰痛だ。

 

とうとう俺も後戻りできない地点まで来てしまった。

椎間板ヘルニアコースになると、今後の人生本当に生きていくのが難しくなる。

弱者は肉体労働をするしか道がない。しかし椎間板ヘルニアの民にそれはできない。

否、できるはできるのだ。

身体の中にプレートとかボルトとかを埋め込んで、薬を飲むことで科学の力で痛みを抑えることができる。

 

実際に我が施設にもそうやって働いている人がいる。

現役世代が手術をし、身体に異物を埋め込んでまで介護しているという現状が日本という国だ。

 

 

結婚とは本当に幸せなのだろうか

しつこいようだけど結婚について考えていた

昨日、つまり夜勤入りの日、CAMPFIREのコミュニティを退会した。

介護系のオンラインフォーラムに参加していたが、月540円も金をとっているのに1年6ヶ月の間新しいコンテンツもなし。アップロードされている動画は面白かったけれど、俺はもうその知識に対して月540円を支払う価値を感じなかった。

 

さて困った。540円余ってしまった。

低賃金労働者の540円は安くない。

タバコ1箱、酒2本に変えてしまおうかとも思った。

しかし元々が知識に対して支払っていた金である。だから酒タバコで消費してしまうより、同じく知識に課金しようと思った。

迷いに迷った挙げ句、2ヶ月499円キャンペーンをやっていたKindle Unlimitedをサブスクした。

 

「本は紙でなければならない」「本はもう読まない」と言っていた俺が電子書籍に手を出すとは。

それはともかく、サブスクしたからには何か読まなくてはならない。

そこでふと目についた山本文緒の『結婚願望』を読むことにした。

まず結婚願望という文字列が目についている時点で終わっている。人として終わっているのだ。読み始め、こいつクソ面白いな。やっぱ本はいいなと思いながら夜勤に行き、夜勤中も読んでいた。

 

そして夜勤中の雑談の中で、上の画像の利用者の生活歴の話になった。

彼女は幸せだったのだろうか

時代といえばそうだろう。

それにしてもずいぶんと悲劇である。

俺なら彼女の人生を題材に小説を一本書ける。

 

無職の旦那。浪費癖があり、頻繁に東京に出かける。

そのための生活費をすべて妻に頼っており、妻はそれを受け入れて子育てをしながら夫をも養っている。

歌をうたうんだよ、彼女は。

ペーペーな俺からしたら、最初は「うるせえなこいつ」程度の印象だった。

目が醒めている時間のすべてを歌って過ごしてんだ。

 

昔の歌。毎日聴かされるからググってみたりもした。

童謡ですらない俗歌の類だ。国会のライブラリーにもないような地域の歌。

旅順とか満州とかいう単語がよく出てくる、時代を反映した児童の遊び歌だ。

 

認知症のBPSDに帰宅願望というものがある。

「帰りたい」というやつだ。我々が仕事中に言うやつとはちょっと違う。

無職ニートこどおじの経験がある人ならわかると思うが、自宅の自室にいるときに「帰りたい」と独りごちる瞬間はないだろうか。あの感覚が近い。

あの「帰りたい」は、時空を超越している。

今自分がいるこの場所は自分のためにある空間ではなく、あの頃に、すべてが肯定で満ちていて安らげたはずの世界に戻りたいという感覚。

 

「認知症患者の〝帰りたい〟は自宅を指しているのではない」とは、介護の教科書的な初歩の初歩である。

山田さんはもう自らを山田とは名乗らない。旧姓を名乗るのだ。

16歳より以前の戻ってしまった彼女は、子供のときに友達と歌ったであろうロシア兵と戦う日本兵の歌をうたう。

そして時折我に返り、認知症的な発狂の仕方で「家に帰る!」と叫び暴れる。

俺はなんとなく、その家は旦那と子どもたちが待つところではなく、お母さんとお父さんが待っているところなのだと思った。

家に帰るのパターン

実際利用者の中には、90歳を超えても「お母さんが心配するから家に帰ります」と口に出して言う人がいる。

「あなた何歳? あなたが90歳なんだからお母さんが生きてたら110歳でしょ。もう死んでるのわかる?」と言う介護士はクズでゴミでまったく存在価値がないカスだから自覚したほうがいい。

咄嗟にありえない前提を受け入れたうえでその話に「空想の話として」乗れる話術を兼ね備えた介護士は少ない。

 

90の婆さんが「お母さんに会いたい」と直接言わなくても、そういったニュアンスのことを発しただけでいろいろ察してもうこの世を呪うけどね、俺は。

 

もうひとつが「お父さん(旦那)にご飯を作らなくちゃいけない」だ。

俺はそんなカスの言うことは知らんからこう返す。

「お前が90なんだから旦那もそのくらいだろ。今どき男でも飯くらい自分で作れないカスはいないから大丈夫ですよ」

結局結婚とは

山本文緒曰く自己肯定感を満たすために〝性的な承認〟が必要な人は結婚に向いているという。

あるいは彼女たちは幸せだったのだという。

女は飯を作るのが仕事という時代、飯は女が作らなければならなかった。

つまりそれは女性性が司る領域の仕事であり、「私がいないと旦那が死んでしまう」になる。

 

誰もが尋常小学校しか出ていないど田舎の場合、価値判断の基準は自分と近所という狭い区間に限られる。

そういった常識の中で生きていたら、「私が働かないと旦那が死んでしまう」になる。

自分の存在が誰かの生命線を握っているという感覚は、すなわち自己肯定感に繋がる。

だから彼女たちは幸せだったのだと思う。

 

だからこそそういうカスに捕まることなく、一人で生きていける女性が増えた現代は素晴らしいと思う。

他人に承認されることを幸せの絶対条件に加えるのはやめたほうがいい。

カスに捕まるよその場合。

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多動の派遣社員キレた!

派遣がキレた!

職場に典型的な多動の派遣社員がいる。

落ち着きがなく常に動き回っているが、目についたことをやって回っているだけであり、本来その時間に何の業務をするのかわかっていない。

わからないことを質問するのだが、返答を途中で遮って間違ったことをし始める。

しばらくすると戻ってきて同じ質問をする。

行動、動作、思考をすべて声に出す。

敬語が使えない。人の名前を覚えられない。ひとつのことをやっていると、他のことが完全に目に入らなくなる(だからコールが鳴っても行けない)

 

遅刻癖はないが、過去それで苦労したことがわかる。

おそらく学習の結果、絶対に遅刻にならない時間に出勤することで対応している。

だから必ず始業の1時間前にはいる。指示されていない早出なのでサービス労働となるが。

 

教科書的な症状のオンパレードだが、それが発達障害的なものだと理解している人は本人を含めいない。

「私大雑把だからね!」

「私頭おかしいのかな。私って頭おかしい?」

とは本人の言である。

 

当然何をやっても怒られるのだが、それに対しては「はい! すみません! ごめんなさい!」と大声で3度ほど繰り返す。叱責中の言葉を遮ってだ。

彼女がこれまでの人生で身につけた「怒られたときに被害を最小限にする方法」がそれなのだと痛いほどわかる。

なるほど凄い剣幕で謝ってくるやつがいたら、「うん、じゃあ次から気をつけて」と言うしかない。

 

しかし、場当たり的な対応で乗り切れるほど人生は甘くない。

同じ待遇で雇われている他の派遣社員からは不満が続出していた。

直接目にしたことはないが、裏で〝いじめ〟のようなことも行われていたのだろう。

とうとう昨日多動の派遣社員がブチギレて、「みんな私をバカにしている!」と怒り狂って暴れ出した。

その場にいた他の職員は、俺含め唖然として見守るしかできなかった。

よくいる生きづらい人

ネットでよくいる生きづらい人の例がこれだと思った。

たいていは本人視点のみの体験談となるから、同僚がその人をどう観察し評価しているのかがわからない。

控えめにいって、その人は仕事ができない。

介護とはチームで人の命を預かる仕事である。

ミスがあれば事故につながる恐れがある。その人がミスをすることで利用者に危険が及んだ場合、その人だけでなく一緒に仕事をしていた人にも責任が発生する。

 

とくにペアで仕事をする人には、業務の他にその人がきちんと仕事をしているかを確認することと、その人に的確な指示を出す仕事をしなければならない。

正社員が夜勤要因に駆り出されている以上、日勤帯の業務は派遣同士でペアを組んで回さざるを得ないという状況。

今回のいじめの背景にはそうした要因がある。

いわゆる「多動ちゃん係」をやらされていた派遣社員が、溜まりに溜まった鬱憤を本人にぶちまけた結果、「私ばっかり責められてる!」となったのだ。

 

結局、仲を取り持ったのは当日のケアリーダーだった。

両者から話を聞いたうえで喧嘩両成敗。

教科書的な対応だけれども、単なる現場責任者にメンタルケア的な対策がとれるはずもなく、当事者同士には大きな溝が残ったまま見た目上は解決とした。

 

ケアリーダーは「疲れた」と言い、その日の夜は飲みに行くことになった。

そこで俺から「多動」や「ADHD」を知っているか尋ねると、聞いたことがないと返ってきた。

どれだけ典型的な症状が現れていても、知らない人からしたら「性格がおかしい人」「頭が悪い人」に映ってしまうのだろうと実感した。

 

 

介護業界のタブー

日本式介護は近い将来人権無視の扱いを受けると思う

現実にある話、脳出血、脳梗塞後変な形で生き残ってしまうと要介護5状態で生き延びることになる。

自力で手足が動かせないので、だんだんと固まって赤子のような姿勢で関節が固定される。

これが〝拘縮〟である。

日本中にごまんといる、このファイティングポーズ以外の姿勢を取れない老人のことを5chの介護・福祉板では〝ゾンビ〟と呼ぶ。

この呼称はいい部類である。

 

我が施設では「虫みたい」と形容される。

我が街一番の社会福祉法人系列の施設では「イモムシ」と呼んでいると派遣の渡り鳥から教えてもらった。

当然これは身体拘束・虐待廃止委員会的にはアウトな表現なので、絶対に表には出ない。日本社会において、表に出ないということは存在しないということだ。

 

拘縮がない利用者もいる。

彼らは常時全身脱力状態にあるが、唯一力を入れるのが身体介助を受けるときだ。

最後に残った力のすべてを込めて抵抗する。これが〝介護抵抗あり〟の状態。

 

いわゆる植物状態、自分で意思表示ができず、体も動かせない身体になると、人間にはどういう感情が残るのだろうか?

「たとえどんな状態であろうとも一秒でも長く生きていたほうが素晴らしい」というのが日本人の公式見解であり、実際に現場はその価値観で回っている。

 

身体がまったく動かせず、認知症の極限に達した人間に残された感情の発露は苦痛表情のみになる。

そう、彼らには喜びも楽しみも存在しないけれど、苦しいときにはちゃんと苦しい表情をする。痛いときには痛いという表情をする。

彼らは決して笑わない。笑いを司る脳の組織が物理的に破壊されているから。

 

はっきり言って、我々介護職の仕事はその苦痛をできるだけ長引かせることである。

厚生労働省によると、それが本人の〝ニーズ〟ということになっている。

法人からするとそれが収入源となる。

ケアマネジャーはそのためには何が必要か情報収集し教えてくれる。

そして何より、家族もそれを望んでいるのだ。

だから日本で死生観を語るのはタブーになっている

長生きは素晴らしい。

人に生まれた以上、21世紀に生まれた以上、先進国に生まれた以上科学の力を駆使しして寿命限界まで生き続けるのは当然の権利。

具体的にここまで思って生きているかは知らないが、現実に日本全国でこういうことが起こっているから2025年問題とかいう壁が存在しているのだし、膨れ上がる社会保障費が問題となっている。

 

誤解を恐れず言うが、俺はこの仕事が気に入っている。

施設にいる利用者の8割は常に「家に帰りたい」と言う。

俺もコロナに罹ったとき、療養施設に強制収監された10日間「ここから出せ」と暴れた身だから気持ちは痛いほどわかる。

自分の意思とは関係ないところで強制的に自宅から引き離され監禁されるというのは、非常に苦痛である。

しかし俺は絶対に利用者を家に帰さない。

当然一介護員にそんな権限はないが、家族もそれを望んでいないし、施設としても認められる行為ではない。問答無用で監禁、死ぬまでここにいろと言う立場。まるで強者になったようだ。

家族がそれを望んでいるのだから仕方ない。

 

毎日体力の限界まで「殺してくれ」と叫び続ける利用者がいる。

その人はもう目が見えない。

食事はすべて手づかみで貪っている。

我々介護員はそういった人に対しても笑顔で接する。今日も死ねませんでしたね? という気持ちで。

 

どれだけ死にたくても、全身麻痺で20年間天井を見続ける生活に絶望していても、空腹時に目の前に食事を持ってこられたら口を開けるのが人間だ。

嚥下状態の良い悪いは別として、口元にスプーンを持っていくとたいていの老人は口を開ける。開けない奴には無理やりこじ開けて食わせるのだが、必ず飲み込む。

安心してほしい、日本では飲み込めなくなったら点滴して強引に生かす。

それもダメなら胃に直接食物を流し込むから大丈夫。80歳で全身麻痺、親、子供、配偶者、友達の名前、顔、存在すべてを忘れてもそこから20年生かされるから大丈夫。それはきっと素晴らしいことだから。

すべてを失ってから10年以上生きるよ

介護施設に入ると、本人の意思はまったく関係なく10年以上確実に生きる。

管理栄養士の考案した完璧な食事を、3食きっちり胃に流し込まれるから当たり前だ。

少しでも体調を崩すと抗生剤入りの点滴で完全回復する。

費用は税金だからヘーキヘーキ。

寝たきりでも健康診断は年2回やる。

よっぽど悪いと入院になるけれど、薬漬けで絶対に生き延びられるから安心してほしい。

病衣送りになると24時間寝たきりにされて、仙骨部の皮膚が抉れて褥瘡になるけれど、褥瘡で死ぬことはないから大丈夫。施設に送り返されたらちゃんと褥瘡委員会が開かれて処置するから。法律で義務付けられてるからね、褥瘡委員会。

 

ここまで書いてきたことは、日本ではすべてタブーである。

植松! 植松! でシャットアウトされる。

だけど親にはちゃんと言ってるわ。

自分の手で自分の飯を食えなくなったらもう終わりだから人生に線を引いてくれ、と。

これができないとマジで20年生きるよ。

生きたいなら生きてくれ。

俺はその気持ちが微塵もわからんが、同僚にもどれだけ管に繋がれて、意識がなくても500年生きたいという奴がいるから人生わからん。

そいつも俺と同じこどおじ独身やぞ。

 

自転車乗ってたら本当に体力つくのか?

本当は街道を走りたいが

晴れたので午前中に運動がてらサイクリングに行ってきた。

目的地もコースも何も決めずに出発。

風が強かったので山には行かず河川敷を行くことにした。

本当は街道を飽きるまで漕いでいって、疲れたらそのへんにある店で休憩して帰ってくるということをしてみたい。

 

今俺の街のいたるところで大型トラックが行き交っている。

リニアのトンネルを掘っているからだ。

狭い道を何十台ものトラックが通る。途切れることはない。土日以外は常に走り回っている。

横を自転車で通るなど自殺行為である。

一本や二本ではなく何十本ものトンネルを掘っているのだから、それに関わる重機の数も半端ないはずだ。

これが我が県だけでなく日本のいたるところで行われているのだから、なるほど経済効果的には素晴らしいのだろう。

しかし街道を封じられた俺が行ける場所は山か川しかなくなった。

かくして俺は川に向かったのである。

MONGOOSEのグラベルロードにはデフォルトでバッグがついている。

今日は暑かったのでさすがに飲み物を携帯していった。

タバコと500mlペットボトル、財布、スマホがギリギリ入る大きさ。

これがマジで重宝する。

他にもバッグを取り付けるためのダボ穴が開いているけれど、今のところコレ以上に荷物を増やす予定がないのでデフォルトのバッグがちょうどいい。

人気のない河川敷を目的もなくただひたすら進んでいく。

この雲がいいと思わないか。

日勤で仕事に行くときに、空が晴れていると「仕事してる場合じゃないよな」と思う。

なかなか映えるよこの自転車。

あんまり乗っている人がいないから褒めている記事も見当たらないけれど、少なくとも俺は気に入っている。

結局のところ自転車のエンジンは乗っている人間なので、いい自転車になるかどうかは乗っている人次第なところがある。

自転車に乗ることで体力つくかどうか?

なんとなく1時間くらい走ろうかなと思い出かけた。

帰ってきてから走った距離をGoogle マップで見てみると、だいたい往復で10kmだった。

Chat GPTに訊いてみたら進次郎構文が返ってきた。

 

 

一般的に、自転車趣味を始めるのは40代くらいになってからだという。

主な動機は、健康診断で引っかかり運動不足を指摘されたから。

もちろんそれ以外の人もいるが、体力づくりや運動目的で始める人が大半だろう。

だから自転車は運動になるはずだ。

 

しかし俺の場合一向に体力がついてきた気配がない。

1時間走ってガチで疲れた。

この前も自転車で軽く山道を登って次の日筋肉痛になった。筋肉痛というか普通に一日具合が悪かった。

 

今までに乗った最高距離は往復50kmだった。

一番きつかったのは3.5km 標高差200mの勾配だった。というかこれは2度チャレンジして2度とも無理で手押しした。マジで無理だったから、これから先俺がどれだけ筋骨隆々体力マンになったとしても無理だと思う。

ちなみに普通はこの程度の坂は楽な部類らしい。

 

まぁ毎日トレーニングのために乗ったりはしていないからと言い訳しつつ、普段乗り程度じゃ体力はつかないだろうなという結論に至る。

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金はないけどはてなスター買ってみた

特に意味はないが、はてなスターを買ってみた。

金がないから500円分だ。

なんの意味があるのかはわからない。

残金を給料日までの日数で割る生活

給料日が近づくにつれ財布の中身が減っていく。

日にいくら使えるのか計算しながらする生活は久しぶりだ。

東京で生活していたとき、日に使える金は800円くらいだった。

バイト代が入るとすぐに飲みに行っていた。午後5時から午前5時まで飲んでいた。

会計は8000円~1万円程度だったと思う。

それを数日繰り返すと、日に使える金額的にもう飲みに行けないことに気づく。

そうすると友達にタカっていた。

 

現時点で給料日まで1日に使える金は3600円。

あの頃から比べるとだいぶ余裕があるが、どこかで飲みに誘われると一撃で計算が狂う。

今月はヘパリーゼSとビタミンEX代の12000円が痛かった。

来月も車の保険料で12000円支払わなければならないから、経済状況としては同じ困窮具合となる予想。

加えて付き合いでディアブロIVも買わなければならないから、今月以上に厳しい可能性もある。

せめて会社で飲みにいくときは奢ってくれと思う。

そしたらタダ酒で死ぬほど飲むのに。

俺のツイードの帽子は猫の巣と化している。

 

Microsoft365のサブスクは迷った末続行した。

使えるようにしておいて損はないし、one drive使うから仕方ない。

明日は休み

明日は休みだが天気予報は晴れのち雨。

予定としては雨が降っていなければサイクリングにでも行く。

金をかけずにうまい酒を飲むためには、運動するのが手っ取り早い。

それから仕事で使う資料作り。

夜勤明けの今日は帰る間際の30分残業して車椅子の点検をしてきた。

誰の何がどう壊れていて修理が必要だという文章をまとめる。

雛形をChat GPTに作らせてから手直しするつもり。

誰が書いたかなんて誰も気にしないからヘーキ。AIが書いたとしてもわざわざ言わなきゃバレないし、疑いすらしないと思う。

 

そしてバレたとしても中身がありさえすれば何の問題もない。

 

ミッドジャーニーの更新日は23日となっている。

これ使わなかった分を次の月に持ち越しとかにはならず、完全リセットになるっぽい。

だから残り10時間分のfast timeをできるだけ使い切ろうとも思っている。

もし雨が降って一日家にいなければならないとしたらそれをやる。

画像600枚出力する。

今後の人生で俺が作ることになる資料すべてにあしらえる分のイラストができるだろう。

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