その域に達していない俺は過去に固執する
まだ考えることに価値があった時代、人々は体験を分類しようとした。
専門学校に通っていた頃、大学生の友達が西田幾多郎の『善の研究』で論文を書くと言っていた。
俺も読んだことがあったから、酒を飲みながら純粋経験の話をしたことを覚えている。
俺が熱く語るのに対し、友達は冷めていた。
論文を書くのに俺の感想は不要であり、似たことを書いている他の哲学書や、西田が引用した元の本で使える部分がないかを知りたかったのだろう。
そしてそもそも論旨は純粋経験に関する部分ではなかったのだろう。
西田幾多郎がどこで生まれて、何を食ってどこでクソしていたのかを書きたかったのかもしれない。
友達は今警察官をやっている。
純粋経験とはいわゆる初体験のことだが、原則としてそのものについてまったくの無知でなければならない。
判断材料皆無の中での青天の霹靂。
自他の区別がついていない状態での経験。
情報化社会と言われる現代において、事前情報なく何かに触れる機会は少なくなっている。
俺にとって最大の純粋経験は、情報化社会への接触だった。
つまりインターネットとの出会いだ。
「ネットはこんなもの」という知識がまったくない状態でパソコンに触ったのが小学6年生のとき。
きっかけが何だったのか、それすら覚えていない。
家に置いてあったパソコンは、母が年賀状を作るために購入したものだった。
1年に1度起動し年賀状を作るためだけの用途で設置された置物は、小学校低学年の頃から常に視界内にあったと思う。
俺もその頃からパソコンに触ってはいたけれども、ももんがクラブとかいう謎の知育ソフトをやるためだった。
クリックだけで遊ぶフリーゲームみたいなものだ。
小6のとき、確か『風来のシレン3』が欲しくて、それでも買ってもらえなかったことを誰かに言いたくて2chに書き込んだのが最初のインターネット体験だった。
そのまま「親が買ってくれない」という内容を書き込んで、さんざん叩かれた。
叩かれた内容よりも見ず知らずの人(言動から歳上なのがわかった)が俺の言葉に反応していることに驚愕し、以後様々なフォーラムに入り浸るようになった。
かつてパソコンが担っていたこの役割を、今はスマホが担っているのだろうか。
日本のスマホ所有率が5割を超えた2013年付近で「バカッター」「バイトテロ」という言葉が生まれた。
10年前は俺も19歳だったから、Twitterでバカなことをやっていたのはおそらく俺の世代である。
今はTikTokで寿司ペロペロだから、時代が進んでもプラットフォームが変わるだけでやっていることは変わらない。
ネットに年齢制限をかけても意味がないと思う。
むしろネット社会における善悪の価値基準を刷り込むには、触れる年齢は早ければ早いほうがいい。むろんある程度制限された使い道をする必要はある。
しかし今のネットに健全な空間などあるだろうか。
俺の姪は今年で保育園の年長になるが、2年前からひたすらYou Tubeを見させられている。
母親が忙しく手が離せないとき、我々世代はディズニー、ジブリ、ドラえもん、アンパンマン、おかあさんといっしょ、ポンキッキーズなどを見させられてきた。
現代はその位置にYou Tube(You Tube KIDS)がいるだけだが、オフラインである昔ながらの媒体とは違いオンラインには様々な悪意が潜んでいる。
数年前「エルサゲート」という言葉が話題になった。
子供用動画に擬態してナンセンスな内容を子供に見せるトラップのことを指す。
今は規制が強化されているらしいが、俺はYou Tubeを見ている姪を見て心配になった。
自分がYou Tubeを見ているから分かるが、コンテンツの量でいえば圧倒的に英語のものが多いため、何時間もザッピングしていると自動的に英語圏の動画に行き着く。
姪も同じ末路を辿ったようで、2年間英語の動画を見続けたせいで日本語の発音よりも英語のほうが上手くなってしまった。
少子化、未婚化、晩婚化、核家族化。
社会は問題だらけだが、ふと昔に目をやってみると、おじいちゃんお婆ちゃんが孫の面倒を見ていた時代には子供はすくすく育っていた。
美化しすぎだろうか。
ここはひとつ、インターネット老人会に未成年の世話を任せたらどうか。
未婚、既婚、学歴、年収で煽り合っている年齢は除外する。
現実の老人になるためには年齢を重ねなければならないが、インターネット老人会に入るには年齢の他言動も老成していなければならない。
煽りはなく、代わりに未来も希望もない。
あるのは過去と、次の世代へのリスペクトだけ。
そんな老人会があれば、俺も入りたい。
その域に達していないかもしれないが。