無職には責任がない
社会に参加していない以上、無職が社会を云々する行為ほど無責任なものはない。
いわゆる〝普通の大人〟が社会を考えるとき、それは自分の生活に関係があるからである。
労働環境、税制、立場による権限の差。
不自由の中に身を置き、耐え忍んでいるからこそ物を言う権利が生まれる。
責任ある立場から発せられる言葉には説得力が生まれ、人々が耳を傾ける。
これは何も仕事だけの話だけではなく、家事、育児に携わっている人が、その道について語ることには価値がある。
無職の戯言はすべて野次に等しい。
外野から無責任に言葉を投げているだけで、説得力もなければ意味すらない。
発言者でさえ明日には忘れている言葉に、誰が耳を傾けるだろう。
無職の言葉とは絵空事である。
どこかで聞きかじった事柄を、劣化コピーして右から左に流しているだけ。
自分で経験したり感じたことではないから、端々にどこか他人事のような雰囲気が漂い、ただでさえ説得力のない言葉に空虚感が加わる。
居酒屋の片隅で政治家を罵倒している酔っぱらいオヤジからは、生の実感が伝わってくる。
今日を生き終えたという達成感が彼らを饒舌にし、酒の進むままにあるべき社会を語る。
明日も生きなければならない彼らの語気は自然と荒くなる。
大変な日々に耐えているからこそ不満を持つ権利がある。
仮に彼らが見当違いのことを言っていたとして、誰が責められよう。
消極的逃避
自らの意思で社会と距離をとった人が積極的逃避だとすると、俺は消極的逃避をした人間である。
社会との関係を築けずに、自分の頭の中だけで作り上げた像に怯え続けている人間。
社会参加していないことに負い目を感じ、常に不安を抱いている。
わからないこと、知らないことを考えるのは難しい。
俺は社会について何も知らない。
だから考えるべきではないのだが、不安からひたすら考え続ける。
本来無職に許された思考はふたつだけだ。
・今日は何を食おうか
・今日は何時に寝ようか
これだけが自身に関係することであり、これ以外は空想である。
無職を続けるにも才能がいるという。
それはこの言いようのない不安に押しつぶされるか否かにかかっているのだと思う。
社会に負い目を感じている状態を長く続けるのは難しい。
一度も社会に出たことのない人間と、リタイアした人とで差があるのはこの部分が大きい。
二度と参加してやるものかという覚悟があるかどうかの違い。
そういえば俺はアルバイトをしたことがあるのだが、自分のことを一度も働いたことがない人間だと見なしている。
バイトは職歴にはならないらしいから、正しいといえば正しいのか。